私は自身を「境界人」だと定義している。韓国人の父と日本人の母の 間で二つのルーツを持ちながら生まれた私は、幼少期から小学校までの 8年間を中国で過ごし、中高を含めた 10 年間を韓国で、そして大学から社会人までの8年間を日本で過ごした。国と文化を越境しながら育ち、 それらの境界に立つ「境界人」としてのアイデンティティが次第に形成されていった。
人・国・文化の間に横たわる境界線は、異物を排除したいという人類が無意識に持つ性質から生まれる。私がこうした境界線を強く意識するよう になったのは、暮らして来た国々で知り合った朝鮮半島からの移民との 出会いからだった。中国で暮らしてきた頃、身のまわりには朝鮮族が多く 住んでいた。日本ではたくさんの在日コリアンと出会った。彼らの多く が居住国の人々と比べて低い待遇に甘んじていたり、ヘイトスピーチなどの排斥にさらされているさまを目の当たりにしてきた。
衝撃を受けたのは、彼らが母国、韓国であっても差別に直面している ことを知ったときだった。居住国でよく「国に帰れ!」といったヘイトスピーチにさらされることがあるが、いざ母国に帰れば就職難に直面したり、 職場や学校などで受け入れてもらえないこともあると知った。私も中学 生の頃、韓国人と日本人のハーフであることや、中国で過してきたというだけでいじめにあった。 どこで生まれたのか、どこで生きてきたのか、そんなことだけでつらい思いをする人たちを他人だと思えなかったし、先祖の代から感じてきた 移民たちの苦痛を自分のことのように感じた。そして、私は徐々に「境 界線にとらわれない社会の実現」を夢見るようになっていった。
夢に近づくために、私は人と人が交流できる場づくりにずっと挑んで いる。2014 年から One Young World サミットでの日中韓 3カ国を含む 東アジア地区のコーディネーターとして活動し、地域での対話と協力の機会を増やすことに挑んだ。異なる背景を持つ人たちの対話、それこそ が境界線をなくすための第一歩だ。
たとえセンシティブなトピックで互いに嫌悪感を抱く可能性があったと しても、私たちは対話し続けなければならない。試行錯誤と挑戦なのだ。 それを積み重ねていって、いつかは互いの差異を学び合い成長し合える「村」のような場所をつくるのが最大の夢だ。人々の間に境界線のない「村」、 私はそこでようやく「境界人」をやめるのだろう。