神奈川県藤沢市で生まれた私は、海の近くという自然豊かな環境でのびのびと育ちました。ストリートダンスや空手、ピアノなど、沢山の習い事にも挑戦した小学生時代を振り返ると、好奇心旺盛で体を動かすことが大好きな子どもであったと思います。高校の春休みには、アメリカにある姉妹校を訪問し、ホームステイも体験しました。それまで日本で暮らしていた私にとって、肌の色や文化の異なる人々が共に学ぶ景色は新鮮で、また衝撃的でした。ホームステイ先の女の子と過ごした日々や、アメリカならではの生活を体験したことで、将来はこうした多様な環境で働きたいという夢が芽生えました。
大学受験では希望する大学に進学できず、大きな挫折を経験しました。落ち込んでいた私が救われたのは、毎年9月に代々木公園で開催されているグローバルフェスタでの出来事です。内閣府のブースに立ち寄り自身の落胆を吐露した時、「君、まだ18歳でしょ。今からだったらどんな未来を描いても絶対間に合うから!」と励まされました。この言葉を胸に、私は粘り強く努力を重ねるようになりました。自分はどのような未来を過ごしたいかを真剣に考えるようになり、大学を卒業する頃には、日本の技術を世界に伝えたいという思いから、日系の電機メーカーへ就職しました。そして、配属先の海外営業部での業務やアフリカ大陸への出張を通じ、国際協力・開発の仕事がしたいという思いが強くなり、勉強をし直すために大学院へ進学しました。大学院卒業後は、国連で働きたいという思いから、ニューヨークにあるユニセフ本部の人道支援局でインターンとして働き始めました。様々なバックグラウンドを持つ人々が、 1つの目標に向かって物事を進めていくところに惹かれたのです。
最初は3ヶ月の契約でしたが、その時の働きが評価され、更に3ヶ月延長されました。そして、国連の緊急人道支援活動の基礎から経験を積みました。しかし、インターンという不安定な立場であり、常に先が見えない不安と闘っていました。6ヶ月目が終わりに近づいた頃、ウクライナ戦争が勃発しました。翌日には新しくウクライナ危機対応事務局が立ち上げられ、戦争により急増した業務を支える人手が必要でした。そのこともあり、私はインターンでありながらウクライナ危機対応チームへの参加を提案されました。そして、その時の上司が当時の私の努力を評価し、正式なポジションを得るために上層部に掛け合ってくれました。こうして私は緊急人道支援を正式に担当し、現在のキャリアを築く大きな一歩を踏み出しました。戦争という悲劇がきっかけで今のキャリアを築くことになったことは、決して誇れることではありません。しかし、国連の仕事は戦争や貧困などが存在する限り、あり続けます。その現実を受け止め、今後も仕事の大小を問わず、自身の役割を果たしていきたいと思っています。
現在、現在は国連IOM(International Organization for Migration/国際移住機関)ニューヨーク事務所移り、平和構築や気候安全保障といった分野で働いています。戦争が終結した地域での平和と安全を確立する段階に携わり、ユニセフ時代の緊急人道支援からシームレスに続く形で仕事を進めています。目標は、世の中で起こっていることを知ること、そして困っている人々の助けとなるように仕事を一生懸命やることです。
人は何か辛いことがあった時、嫌だな、苦しいなと感じると思いますが、私が経験したように、ウクライナ紛争等の予期しなかった出来事が転機となり、その後の自分自身に繋がることもあります。また、ニューヨークで暮らし始めた当初の生活は経済的に辛かったですが、そのおかげで今困っている人の気持ちがよく理解でき、後輩の役にも立ちたいと思っています。このように、辛いことがあってもきちんと吸収して咀嚼をすれば、自分を強くする武器に変わると思うのです。良いことも悪いことも、全てが自分の人生の糧になります。悩んでいる時でさえ、行動して前に進んでいることの証です。つまり、起こることはすべてベストです。