1995年にロサンゼルスで生まれた私は、生後10か月で初めて水泳と出会いました。その後、地元のYMCAという水泳クラスを通じて次第に水泳が好きになりましたが、そこで私は2つの課題に直面しました。1つ目は、多文化で競争的な環境です。私が所属していた水泳チームのほとんどは白人のアメリカ人であり、黒人の子供は私を含めてわずか2人でした。そのため、異なる文化的背景を持つ人々と幼い頃から交流することに難しさを感じていました。さらに大きな課題は、わずか10歳でシャルコー・マリー・トゥース病(以下CMT)と診断されたことです。これは歩行や日常の動作が難しくなる遺伝性の神経疾患であり、私は歩き方や基本的な運動機能をもう一度学び直さなければなりませんでした。この症状は水泳への情熱を含めた私の人生すべてを変えてしまう恐れがあったため、12年もの間、コーチやチームメイト、そして友人に隠して生きてきました。
すべてが変わったのは2018年のことです。私の水泳コーチであるウィルマ・ウォンや、イギリスからの友人が、私の体の動きの”違い”に気づき、敬意を込めながら言及したのです。最初は目の前で起きていることを受け入れられませんでした。レッテルを貼られ、批判されるのが怖かったのです。自分の障害が私を定義づけることを恐れ、自分の願いが潰されてしまうのをただ避けようとしていました。
しかし同時に、自分を完璧な「人間」としてではなく、完璧な「自分自身」として理解し、感謝することが大切なのでは、と気づいていきました。長い間蓋をしていた現実を受け入れる必要があると心の深いどこかで理解し、次の一歩を踏み出す決意を固めました。この決意は単なる現実の受容ではなく、自分自身と向き合い、未来を切り開くための大きな勇気でもありました——私がパラリンピック出場を目指す始まりとなったのです。もちろん、その道のりは簡単なものではありません。CMTと共に生きることは、肉体的にも精神的にも想像を超える困難があります。ただ、それは私という人間の一部であると、徐々に受け入れるようになりました。私たちは皆誰もが、何らかの痛みを抱えて生きているということに気づいていったのです。
2020年、私は東京パラリンピックで銅メダルを獲得し、2023年にはパリのパラリンピック水泳選手としてアメリカチームの代表となりました。これまでの旅路を通して、障害とは自身を定義するものではなく、力を与えてくれるものであることに気づきました。そして、唯一の失敗は「諦めること」であるということ。失敗から学び、受け入れて前に進むことが、より大きな成功につながると信じています。時間、達成、勝ち負けの中にあるチャンスが、生涯を通じて何度も私自身を創り続け、描いていた夢や運命を手に入れることができるのです。
私にとって水泳は、単なる趣味や競技を超えた存在です。世界保健機関(WHO)の統計によれば、2016年にはおよそ36万人が溺死で命を落としています。この問題を少しでも解決したいと思い、私はSwim Up Hill財団を設立しました。最初の活動としてコロンビアに赴き、現地の子どもたちを市内中心部に集めました。そこでスイミングスクールと提携し、1日分の食事や水泳指導・道具を提供することで、教育を通じて彼らを守ると同時に、子どもたち自身にたくさんのことが”できる”ということに気づいてもらいました。また、私たちは水泳の初歩を教えるための本を出版し、これまでに2万人の生徒に贈ってきました。今後も、2028年秋までに年間100万人の生徒に泳ぎ方を教える予定です。
私の目標は、パラリンピックでメダルを取ることだけではなく、ノーベル平和賞を受賞する初のパラリンピック選手になることです。今後のビジョンとしては、ロサンゼルスでのパラリンピックに向け、自身のチームを再建し、困難を乗り越えて果敢に挑戦することをアイデンティティとして持つ人々を、代表していきたいと考えています。また、Swim Up Hill財団のCEOとして今後10年間、利益だけでなく、人々にポジティブな影響を与える活動を続けていきます。教育と水泳の普及を通じて世界的な風土病である溺死の根絶、経済的に恵まれない地域での水恐怖症などの問題解決に力を注ぎます。私はこれからも歩き続けるつもりです。何度倒れようとも。
これを読んでいるあなたに伝えたいことがあります。「自分の直感を信じ、ありのままの自分を受け入れ、自分のストーリーを恐れず伝え続けてください。」あなたの物語は、必ず誰かの心に響くはずです。